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近藤哲先生の資料(夏目漱石未亡人・鏡子の手紙)
の第三の手紙に

皆川正禧の郷里の「ゼンマイ」や「」「百合の根」などに対するお礼の言葉が認められており、正禧は折に触れこうしたものを送ったであろうと記されている。
鏡子夫人は贈り物を料理し漱石はそれを召し上がったと思う。

皆川正禧は 明治10年2月10日 に新潟県東蒲原郡揚川村字西五番戸で生れた。(家は西村八幡宮の神主さん)



会津中学・二高を経て東大に進んだ皆川正禧は、ここで夏目漱石と出会い、その門下生となっている。

近藤哲先生の「夏目漱石と門下生・皆川正禧」の書籍には

正禧の実家には阿賀野川に簗場を持っており、沢山鮎が捕れた記載あり、またボラも捕れたと記載がある。
今は楊川ダムが出来て鮎は遡上出来ない。






夏目漱石の小説「坊ちゃん」に出てくる「山嵐 (堀田)」という
「会津っぽ」が登場する

「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。 〜 」

「山嵐」とは

会津藩士/志田貞二郎の3男で家老/西郷頼母の養子となり、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の得意技が「山嵐」である。


西郷四郎は会津藩士志田貞二郎、妻さたの三男として慶応2年(1866)2月4日、会津若松(現在の福島県会津若松市)で生まれた。

志田貞二郎一家は元々、会津領(現在の新潟県)津川字志田平の豪族であったが、会津戊辰戦争が始まり、会津が戦火に巻き込まれると、父貞二郎は四郎を津川に帰す決断をする。
母さたは気丈な女で、二歳の四郎を背中に背負い、三人の子供の手を引き、三人の老人を連れて戦火の会津を避難して津川角嶋に行ったと言われている。
志田家は津川角嶋から再び移転し阿賀野川湖畔の小野戸に舟大工の店を開いた。





 やがて四郎は津川小学校に入学し、舟大工の店を手伝いする。
四郎は会津藩士族の仕来りに従い、幼少より儒教を習い、更に七歳頃から柔術も習い始めていた。
津川には天神真楊流の柔術師範、天津名倉堂の粟山昇一(あわやましょういち)が居た。
粟山は、四郎を同門の高田大町の天神真楊流名倉堂(なくらどう)の永田政一師範を紹介し、武者修行に出す事を決断する。

明治十五年三月四郎は代用教員を辞めて、親友であった佐藤与四郎を伴って、東京の慶応義塾に入学していた先輩・竹村庄八(たけむらしょうはち)を頼って上京する。
竹村は四郎の天成の資質を見抜き、拳法道場の師範の伝(つて)を頼りに、四郎を井上敬太郎(いのうえけいたろう)の柔術道場に内弟子として入門させる。

この頃、東京では東大出の学者の経営する講道館柔道が噂(うわさ)になっていた。
これを逸(いち)速く小耳に挟んだ竹村庄八と四郎は、嘉納が講道館だけではなく、嘉納塾も経営する塾頭と知り、一石二鳥の企てを試みる。
つまり内弟子を兼ねた書生に潜り込む方策を手段として考えた。

そして元々井上と嘉納は磯道場の兄弟弟子の関係にあり、四郎の天成の伎倆(ぎりょう)的資質は直ぐに嘉納にも見抜かれ、それは以降、数年に亙って嘉納に利用される事になる。
四郎は講道館に入門して直ぐさま、その驚異的な伎倆を発揮する。
その三〜四年後には警視庁武術大会に嘉納の名代(みょうだ)として、講道館を背負い、試合に出場している。
こうして四郎は講道館七人目の弟子として『講道館修業者誓文帖』に名を連ねる事になる。
この誓文帖(せいもんちょう)には
「福島県越後国浦原郡清川村四十三番地、志田駒之助弟 士族 志田四郎 十四年四ヵ月 明治十五年八月廿日」とある。





なお西郷四郎の墓は長崎にあるが、没後85年を経て平成19年に本人の遺言により分骨された墓が阿賀町の正法寺にある。






坊っちゃんに登場する山嵐は
一説には漱石の上司であった嘉納治五郎と会津出身の漱石門下の皆川正禧の二つの縁から、
会津出身で「山嵐」を得意技とした柔道家・西郷四郎をモデルの一人とする説もある。


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夏目漱石は阿賀町産のゼンマイ、鮎、百合の根を食べていた。

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